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2025年(令和7年) 8月3日日曜日 PM 12時06分 (JST)
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「あおもり歴史トリビア」第658号(令和7年6月27日配信)
「あおもり歴史トリビア」第658号(令和7年6月27日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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皆さん、こんにちは。文化遺産課の設楽です。
前回の担当分(令和7年3月28日配信 第645号)に引き続き、今回も砂鉄をテーマに取り上げたいと思います。
日本古来の製鉄は、江戸時代を迎える頃までに中国地方を中心に「たたら製鉄」として発展します。たたら製鉄では、1回の操業だけでも約13トンに及ぶ砂鉄が必要とされ、多数の砂鉄採取場から砂鉄が集められて生産が行われていましたが、やがて均質な砂鉄を大量かつ効率的に採取できる「鉄穴流し(かんなながし)」という方法が行われるようになりました。鉄穴流しとは、丘陵の山腹や谷に水路を設けて、上方の崖の土砂を人力で切り崩して水路に流し込み、水路や途中に設けられた池を土砂が通過して流れることで、土砂と砂鉄を比重の違いによって選別・採取する方法です。
また、江戸時代の東日本における製鉄の中心地であった盛岡藩・八戸藩では、江戸時代後期以降になると、川から引いた水を樋に流し、そこに崖の土砂を流し込むことで比重によって砂鉄を得る「切流し(きりながし)」とよばれる鉄穴流しに近い方法が採られていました。
上記の鉄穴流しと切流しは、大量の砂鉄を効率的に採取できる方法ですが、土砂が下流の川に流れ込んで川底にたまることによって、川が浅くなって洪水の原因となったほか、濁り水が農業用水に悪影響を与えたことで、製鉄の経営者と農民等の間では、しばしば紛争が起こったといわれています。
弘前藩については、隣接する盛岡藩や八戸藩からの技術が導入され製鉄が行われましたが、切流しが行われていたことを示す史料は、今のところ見つかっていません。現時点で確認できる史料から、当地方では海岸から採取した砂鉄を集めて製鉄が行われていたことが窺えます。現在の中泊町今泉地区に存在した今泉鉄山では、史料から津軽半島西側の七里長浜のうち、南は音平浜(現 鰺ヶ沢町)、北は出来嶋(現 つがる市)などの採取場所から砂鉄を取集め、菰槌(現 つがる市)を中継して、そこから船で十三湖岸まで輸送し、最終的に山間部の今泉鉄山まで運んでいたことが窺えます。また、七里長浜の各採取場所では、樋を使って、砂を3〜4回洗うことで砂鉄を選別していたことが史料に認められます(小泊村 1999)。今泉鉄山で使用された砂鉄の採取・選別方法については、切流しのような大がかりな方法ではなかったようですが、採取場所では何度も砂を洗うことで砂から砂鉄を絞り出すとともに、製鉄に使用する砂鉄の品位を高めていたと考えられます。
《参考文献》
小泊村 1999 『小泊村史 資料編』
渡辺ともみ 2006 『たたら製鉄の近代史』
角田徳幸 2019 『たたら製鉄の歴史』
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
[登録者]
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[言語]
日本語
[エリア]
青森県 青森市
登録日 :
2025/06/27
掲載日 :
2025/06/27
変更日 :
2025/06/27
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31 人
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前回の担当分(令和7年3月28日配信 第645号)に引き続き、今回も砂鉄をテーマに取り上げたいと思います。
日本古来の製鉄は、江戸時代を迎える頃までに中国地方を中心に「たたら製鉄」として発展します。たたら製鉄では、1回の操業だけでも約13トンに及ぶ砂鉄が必要とされ、多数の砂鉄採取場から砂鉄が集められて生産が行われていましたが、やがて均質な砂鉄を大量かつ効率的に採取できる「鉄穴流し(かんなながし)」という方法が行われるようになりました。鉄穴流しとは、丘陵の山腹や谷に水路を設けて、上方の崖の土砂を人力で切り崩して水路に流し込み、水路や途中に設けられた池を土砂が通過して流れることで、土砂と砂鉄を比重の違いによって選別・採取する方法です。
また、江戸時代の東日本における製鉄の中心地であった盛岡藩・八戸藩では、江戸時代後期以降になると、川から引いた水を樋に流し、そこに崖の土砂を流し込むことで比重によって砂鉄を得る「切流し(きりながし)」とよばれる鉄穴流しに近い方法が採られていました。
上記の鉄穴流しと切流しは、大量の砂鉄を効率的に採取できる方法ですが、土砂が下流の川に流れ込んで川底にたまることによって、川が浅くなって洪水の原因となったほか、濁り水が農業用水に悪影響を与えたことで、製鉄の経営者と農民等の間では、しばしば紛争が起こったといわれています。
弘前藩については、隣接する盛岡藩や八戸藩からの技術が導入され製鉄が行われましたが、切流しが行われていたことを示す史料は、今のところ見つかっていません。現時点で確認できる史料から、当地方では海岸から採取した砂鉄を集めて製鉄が行われていたことが窺えます。現在の中泊町今泉地区に存在した今泉鉄山では、史料から津軽半島西側の七里長浜のうち、南は音平浜(現 鰺ヶ沢町)、北は出来嶋(現 つがる市)などの採取場所から砂鉄を取集め、菰槌(現 つがる市)を中継して、そこから船で十三湖岸まで輸送し、最終的に山間部の今泉鉄山まで運んでいたことが窺えます。また、七里長浜の各採取場所では、樋を使って、砂を3〜4回洗うことで砂鉄を選別していたことが史料に認められます(小泊村 1999)。今泉鉄山で使用された砂鉄の採取・選別方法については、切流しのような大がかりな方法ではなかったようですが、採取場所では何度も砂を洗うことで砂から砂鉄を絞り出すとともに、製鉄に使用する砂鉄の品位を高めていたと考えられます。
《参考文献》
小泊村 1999 『小泊村史 資料編』
渡辺ともみ 2006 『たたら製鉄の近代史』
角田徳幸 2019 『たたら製鉄の歴史』
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
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