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2025年(令和7年) 4月1日火曜日 PM 02時09分 (JST)
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「あおもり歴史トリビア」第642号(令和7年3月7日配信)
「あおもり歴史トリビア」第642号(令和7年3月7日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは。歴史資料室の村上です。
現在、歴史資料室では企画展示「青森市内石碑めぐり3」を行っています(展示期間は4月8日まで)。8階のパネル展示では著名な作家の紀行文に取り上げられた石碑として、善知鳥神社境内にある死節碑と合浦公園の園名標をご紹介しています。そこで、今回は死節碑についてお話しします。
死節碑は西南戦争の戦没者の霊を祭るため、明治11年(1878)に建立されました。碑の建立を計画したのは青森県令(現在の知事にあたる役職)の山田秀典で、撰文(碑文の作成)は修史館(政府の歴史編纂所)の依田百川(号は学海)、書は文部省の内田義修が手がけました。この石碑を明治15年に森鴎外が、明治25年に幸田露伴が見ています。
鴎外は陸軍軍医として徴兵検査の業務に従事するため、明治15年に北海道・東北地方を訪れました。この出張の際のできごとを「後北游日乗」(『鴎外全集』第35巻 1975年 岩波書店に収録)に記しています。10月3日に青森町へ到着した鴎外は、10月5日に善知鳥神社を訪ねました。『後北游日乗』には「五日 晴れたり安方町なる善知鳥祠に詣づ死節碑あり依田学海師の撰文なり」と簡潔に書かれています。
一方、露伴は明治25年7月から8月にかけて東北・北陸・関西地方を旅しており、「易心後語」(『枕頭山水』博文館 1893年に収録)にその体験をまとめました。7月中旬に青森町を訪れた露伴は「善知鳥神社に参詣し、社前に樹てある西南の役戦死者の碑を見、依田学海翁の文など読む中、碑の石に曰くあるを見付け出しぬ」と記しています。気になるのは碑石の「曰く」です。
自身を「石塔通」と称する露伴によれば、石碑に使われる石材には穴や欠けなどの「曰く」のあるものが多く、それを知られないように蝋や松脂を用いて細工するものの、風雨に晒されれば繕ったことはわかってしまうといいます。死節碑についても「半月型の嵌石あれば、あはれ何十後年には学海翁の名文も一二字読めぬやうなるべし」と述べています。改めて死節碑を見てみると、確かに半月型の石がはめ込まれています。露伴はこの部分に着目したのでしょう。
さて、二人の文章には碑文を書いた依田の名前を記しているという共通点があります。実は二人は依田と親交がありました。依田は学生時代の鴎外に漢文を教えた人物であり、露伴のデビュー作『露団々』の序文も書いているのです。恩師である依田が碑文を書いていると知り、この石碑に注目したのかもしれませんね。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
[登録者]
青森市
[言語]
日本語
[エリア]
青森県 青森市
登録日 :
2025/03/07
掲載日 :
2025/03/07
変更日 :
2025/03/07
総閲覧数 :
74 人
Web Access No.
2601405
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こんにちは。歴史資料室の村上です。
現在、歴史資料室では企画展示「青森市内石碑めぐり3」を行っています(展示期間は4月8日まで)。8階のパネル展示では著名な作家の紀行文に取り上げられた石碑として、善知鳥神社境内にある死節碑と合浦公園の園名標をご紹介しています。そこで、今回は死節碑についてお話しします。
死節碑は西南戦争の戦没者の霊を祭るため、明治11年(1878)に建立されました。碑の建立を計画したのは青森県令(現在の知事にあたる役職)の山田秀典で、撰文(碑文の作成)は修史館(政府の歴史編纂所)の依田百川(号は学海)、書は文部省の内田義修が手がけました。この石碑を明治15年に森鴎外が、明治25年に幸田露伴が見ています。
鴎外は陸軍軍医として徴兵検査の業務に従事するため、明治15年に北海道・東北地方を訪れました。この出張の際のできごとを「後北游日乗」(『鴎外全集』第35巻 1975年 岩波書店に収録)に記しています。10月3日に青森町へ到着した鴎外は、10月5日に善知鳥神社を訪ねました。『後北游日乗』には「五日 晴れたり安方町なる善知鳥祠に詣づ死節碑あり依田学海師の撰文なり」と簡潔に書かれています。
一方、露伴は明治25年7月から8月にかけて東北・北陸・関西地方を旅しており、「易心後語」(『枕頭山水』博文館 1893年に収録)にその体験をまとめました。7月中旬に青森町を訪れた露伴は「善知鳥神社に参詣し、社前に樹てある西南の役戦死者の碑を見、依田学海翁の文など読む中、碑の石に曰くあるを見付け出しぬ」と記しています。気になるのは碑石の「曰く」です。
自身を「石塔通」と称する露伴によれば、石碑に使われる石材には穴や欠けなどの「曰く」のあるものが多く、それを知られないように蝋や松脂を用いて細工するものの、風雨に晒されれば繕ったことはわかってしまうといいます。死節碑についても「半月型の嵌石あれば、あはれ何十後年には学海翁の名文も一二字読めぬやうなるべし」と述べています。改めて死節碑を見てみると、確かに半月型の石がはめ込まれています。露伴はこの部分に着目したのでしょう。
さて、二人の文章には碑文を書いた依田の名前を記しているという共通点があります。実は二人は依田と親交がありました。依田は学生時代の鴎外に漢文を教えた人物であり、露伴のデビュー作『露団々』の序文も書いているのです。恩師である依田が碑文を書いていると知り、この石碑に注目したのかもしれませんね。
《問合せ》
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