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2025年(令和7年) 4月10日木曜日 PM 04時45分 (JST)
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「あおもり歴史トリビア」第633号(令和6年12月27日配信)
「あおもり歴史トリビア」第633号(令和6年12月27日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
今回は11月15日配信No627の続きで、引続き合浦公園の松尾芭蕉句碑についてです。
まず、繰り返しになりますが、事実関係の整理から。
【事実1】現在、合浦公園内には芭蕉200年忌を記念して明治25年(1892)に有香社が建てた句碑がり、その傍らには同年に有香社を結成した俳人浅田(不二亭)祇年の句碑(明治27年建立)があります。
【事実2】明治32年に執筆された文献に、合浦公園に芭蕉の句碑があることが記されています。
【事実3】大正3年(1914)9月23日付『東奥日報』は、有香社が合浦公園内に芭蕉と浅田祇年の句碑の建設を目指し、いよいよ9月20日にこれが「竣工」したと報じています。
そして、【事実1】【事実2】は一見すると齟齬はありませんが、現在句碑がある場所は、明治32年時点では公園内ではありません。ですから、【事実1】の句碑の存在を前提にすると、【事実2】が記された明治32年時点で碑は園内にあり、それが後に現在地(当時の園外)に移されたということになります(【仮説A】)。
【仮説A】において、【事実1】の芭蕉・浅田祇年の句碑が園内に配置されるとしたら、相応しい場所が1か所あります。それは、公園正面からまっすぐ北へ向かい旧奥州街道とぶつかる少し手前にある藩政時代の句碑、不二亭祇山と升六の句碑の傍です。理由は、祇山と升六は交遊関係があり、しかも祇山と祇年は親子(弟子説もあり)なのです。さらに想像をたくましくすると、そもそも祇山と升六の句碑は、明治24年に開業した東北本線にともない同26年にできた初代浦町駅舎の敷地付近にあったのです。駅舎ができるということで、合浦公園内に移されたのです。ですから、ふたつの句碑の移設と、【事実1】の芭蕉の句碑の建立は時期的にも矛盾しないのです。もちろん、実施したのは有香社となるでしょう。
ただ、問題は【事実3】です。【事実1】【事実2】、そして【仮説A】を前提とすると、【事実3】は有香社による2組目の句碑の建立となり、果たしてこれは実現可能なのか、ということは前回書いた通りです。そして大正期に建てられた句碑は現存していません。
そもそも大正3年は芭蕉の生没に関わる記念の年ではないのですが、浅田祇年の生誕100年、もしくは没後20年に相当する年に近いので、これを理由に有香社が建碑に力を入れたのだろうと思います。ただ、その句碑は現存していません。
どうにも腑に落ちないところはあります。【仮説A】に記したように、芭蕉と祇年の句碑は少なくとも1回は場所を変えている可能性があります。ここにヒント・手掛かりがあるようにも思いますが、仮説に仮説を重ねるのは歴史研究としては正しい所作ではないので、新史料の発見を待つことにします。
今年も「あおもり歴史トリビア」をお読みいただきありがとうございます。新年は1月10日の配信からスタートいたします。それではみなさん良いお年をお迎えください。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
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○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html
[登録者]
青森市
[言語]
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[エリア]
青森県 青森市
登録日 :
2024/12/27
掲載日 :
2024/12/27
変更日 :
2024/12/27
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92 人
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
今回は11月15日配信No627の続きで、引続き合浦公園の松尾芭蕉句碑についてです。
まず、繰り返しになりますが、事実関係の整理から。
【事実1】現在、合浦公園内には芭蕉200年忌を記念して明治25年(1892)に有香社が建てた句碑がり、その傍らには同年に有香社を結成した俳人浅田(不二亭)祇年の句碑(明治27年建立)があります。
【事実2】明治32年に執筆された文献に、合浦公園に芭蕉の句碑があることが記されています。
【事実3】大正3年(1914)9月23日付『東奥日報』は、有香社が合浦公園内に芭蕉と浅田祇年の句碑の建設を目指し、いよいよ9月20日にこれが「竣工」したと報じています。
そして、【事実1】【事実2】は一見すると齟齬はありませんが、現在句碑がある場所は、明治32年時点では公園内ではありません。ですから、【事実1】の句碑の存在を前提にすると、【事実2】が記された明治32年時点で碑は園内にあり、それが後に現在地(当時の園外)に移されたということになります(【仮説A】)。
【仮説A】において、【事実1】の芭蕉・浅田祇年の句碑が園内に配置されるとしたら、相応しい場所が1か所あります。それは、公園正面からまっすぐ北へ向かい旧奥州街道とぶつかる少し手前にある藩政時代の句碑、不二亭祇山と升六の句碑の傍です。理由は、祇山と升六は交遊関係があり、しかも祇山と祇年は親子(弟子説もあり)なのです。さらに想像をたくましくすると、そもそも祇山と升六の句碑は、明治24年に開業した東北本線にともない同26年にできた初代浦町駅舎の敷地付近にあったのです。駅舎ができるということで、合浦公園内に移されたのです。ですから、ふたつの句碑の移設と、【事実1】の芭蕉の句碑の建立は時期的にも矛盾しないのです。もちろん、実施したのは有香社となるでしょう。
ただ、問題は【事実3】です。【事実1】【事実2】、そして【仮説A】を前提とすると、【事実3】は有香社による2組目の句碑の建立となり、果たしてこれは実現可能なのか、ということは前回書いた通りです。そして大正期に建てられた句碑は現存していません。
そもそも大正3年は芭蕉の生没に関わる記念の年ではないのですが、浅田祇年の生誕100年、もしくは没後20年に相当する年に近いので、これを理由に有香社が建碑に力を入れたのだろうと思います。ただ、その句碑は現存していません。
どうにも腑に落ちないところはあります。【仮説A】に記したように、芭蕉と祇年の句碑は少なくとも1回は場所を変えている可能性があります。ここにヒント・手掛かりがあるようにも思いますが、仮説に仮説を重ねるのは歴史研究としては正しい所作ではないので、新史料の発見を待つことにします。
今年も「あおもり歴史トリビア」をお読みいただきありがとうございます。新年は1月10日の配信からスタートいたします。それではみなさん良いお年をお迎えください。
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