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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
先月、市民スクールの「合浦公園の石碑めぐりウォーク」の講師を務めることになり、そのための資料を作成していたところ、思いもよらない難問に遭遇することになりました。今回と次ぎの担当回は、その謎解きにチャレンジです。
【事実1】現在、合浦公園敷地南東部(旧奥州街道以南)に松尾芭蕉200年忌を記念して明治25年(1892)に有香社が建てた句碑があります。そしてその傍らには同年に有香社を結成した俳人浅田(不二亭)祇年の句碑(明治27年建立)があります。
【事実2】明治32年に執筆されたとみられる『東北六県共進会誌』に、合浦公園の「園内に山田県令・松沢病院長及開園者水原某の紀念碑并に芭蕉塚等あり」と記されています。
【事実3】大正3年(1914)9月23日付『東奥日報』によれば、有香社は合浦公園内に「芭蕉翁及不二亭祇年翁の二碑を建設」するため、社長の斎藤祇舟氏らが尽力し、9月20日にこれが「竣工」したと報じています。
【事実1】の建碑年代は碑に刻まれたもので、まずは信頼できるものとみます。【事実2】は、現在の園内には明治32年以前に建てられた石碑は12あり、芭蕉塚(句碑)を含めここで掲げられている碑はすべて現存しています。【事実3】は、記事を疑う理由はありませんが、ここで「竣工」したという碑は現存していません。ちなみに、かつて園内にあって現存していない石碑の事例はほかにも確認できるので、こうしたことがあっても特段おかしなことではないと考えます。
【事実1】〜【事実3】を並べて読んだとき、たしかに大正3年9月末の時点で松尾芭蕉・浅田(不二亭)祇年の句碑が、園内にふたつずつ存在することに少々違和感を覚えます。とくに合浦公園への石碑建設に対しては市の規制があるので、果たして同じ団体がおなじ人物の碑を複数建てることが認められるか…とも思います。しかし、可能ではあるので、それぞれの事実を積極的に疑う理由はなさそうです。
しかし、合浦公園の歴史という観点からみたとき、【事実1】【事実2】には改めて検討すべき点があることが判明します。すなわち、「旧奥州街道以南へ公園域が拡大」したのは「日露戦争以後の1906(明治39)年」である(中園美穂「合浦公園通史 6」)という見解を踏まえると、【事実1】のふたつの碑は当時の公園域外にあり、これを前提とした【事実2】の「芭蕉塚」は当然「園内」ではなく「園外」となるのです。
【事実2】の「園内」の「芭蕉塚」は筆者の誤認なのか、それともたしかに「園内」には「芭蕉塚」があったのか…次回(来月)の担当回ではこの辺りから話を進めていくことにします。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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