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「あおもり歴史トリビア」第643号(令和7年3月14日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
今から約300年前の享保12年(1727)10月24日付で、弘前藩庁は正史「津軽一統志」の編さんにあたり史料収集を命じる触書を発します。ここでは7つの事柄に関する史料の提出を求めていて、ひとつめが初代藩主津軽為信の代に家臣だった36人について、「どのような働きをしたのか伝聞であっても報告し、その子孫は名乗り出ること」というものでした。そして、その36人のなかに今(金)勘解由左衛門という人物がいました。
「津軽一統志」(弘前市立弘前図書館八木橋文庫本を使用)に今(金)勘解由左衛門は数回しか登場しません。しかも、名前が記される程度で、人物像・業績などはほぼ「津軽一統志」からは分かりません。それでも私が興味深く思ったのは、天正13年(1585)の為信による油川城攻めの「外伝」とでもいうべき記事に彼の名前が記されていることです。
「津軽一統志」の油川城攻めの記事に続いて、これに関する事柄の実否は不詳とされる二本柳家の記録を収録しています。この記録は弘前城が築城される前年の慶長15年(1610)頃に書かれたもので、さきの享保12年の触書に応じて二本柳家から提出されたものとみています。なお、弘前藩庁は文化3年(1806)の津軽為信300年忌の際、彼に仕えた家臣の由緒書きを集めた「由緒書抜」を編さんしています。この時に二本柳家から提出された由緒書にも「津軽一統志」に収められたものと類似の記述があり、こちらは『新青森市史』資料編2古代・中世(P.499)に掲載されています。
ところで、油川城攻めに際して今(金)勘解由左衛門は何をしたかというと、二本柳重次という人物を為信に推挙し、為信からの命を受けた重次とその仲間たちの働きによって油川城主「奥瀬則開城して南部へ退きけるにより、是より外浜おのつから御手に入ける」ということになったと…という二本柳氏が取り立てられるきっかけとなった人物になります。そして今(金)勘解由左衛門は兼平綱則・森岡信元・小笠原信清の為信最側近に次ぐ序列にあるとこの二本柳家の記録にはあります。
油川城攻めで人ひとりを推挙したことしか記されていない今(金)勘解由左衛門ではありますが、私はこの記述が「青森市の歴史」の謎解きの重要なカギになるのではないかとみています。というのは、弘前藩庁の公式な記録には出てこない、津軽為信による「外浜築城」のエピソードに欠かせない人物が今(金)勘解由左衛門であり、油川城攻めという事柄なのです。これについては、来週紹介いたします。
ちなみに人名事典によれば、金勘解由左衛門は下新岡出雲と同一人物で、永禄7年(1564)に金備中の家督を継ぎ、元亀元年(1570)頃に勘解由左衛門を名乗るようになったようです。下新岡出雲は「津軽一統志」に3回登場しています。
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電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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